こうかい行動

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金の国 水の国 ファスト恋愛へのアンチテーゼ

あんまり期待せずに劇場まで観に行ったけど,予想外にいい映画だった。派手な映像や意外性のあるストーリーは無かったが,丁寧なキャラクター造形や筋の通った展開で気持ちよく物語の世界に浸らせてくれるような良作だ。

 ストーリーは映画公式サイトから引用するとこんな感じだ。

 

“商業国家で水以外は何でも手に入る金の国と、豊かな水と緑に恵まれているが貧しい水の国は、隣国同士だが長年にわたりいがみ合ってきた。金の国のおっとり王女サーラと、水の国で暮らすお調子者の建築士ナランバヤルは、両国の思惑に巻き込まれて結婚し、偽りの夫婦を演じることに。自分でも気づかぬうちに恋に落ちた2人は、互いへの思いを胸に秘めながらも真実を言い出せない。そんな彼らの優しい嘘は、やがて両国の未来を変えていく。”

 タイパの悪い恋愛

 ここで出会い,恋に落ちるサーラとナランバヤルは両者とも分かりやすいような性的な魅力はない…はっきりと書いてしまえばあんまりセクシーではない。

 現代において,男女の恋愛を描くためにはなにかしらの分かりやすい性的魅力がなければ,恋愛関係に説得力を持たせることが難しくなっている。ここでいう性的魅力とは,男女に共通するのが整った顔立ち,若々しさ,引き締まった身体つきなどだ。それに加えて,男性には何かしらの地位や能力なども性的魅力の条件に加わる。

 わかりやすい例を挙げると,最近公開されている「すずめの戸締り」はまさにそうだ。主人公の少女鈴芽は一目見てわかる美少女の女子高生で,彼女が出会う草太もまた一目見てわかる美青年だ。そして草太には,閉じ師という特別な能力と役割がある。こういった,わかりやすい性的魅力,セクシーさをなしに恋愛感情を持たせるということが最近の作品では少なくなっている。

 20世紀には大量消費社会が成立したが,それは食品や工業製品といった“物質”の大量消費社会だった。そして,21世紀に入り情報通信網が整備され誰もが高性能な情報処理端末を持つようになった現在では“情報”大量消費社会が成立した。情報,つまりコンテンツは安価に大量に生産され消費されるようになった。その結果「タイパ(タイムパフォーマンス)」と呼ばれるような,短時間で消費できることを至上とする価値観が形成された。

 映画やドラマといったコンテンツで恋愛を描くにあたって,上に上げたような分かりやすい性的魅力を理由に恋愛関係を成立させることが最も“タイパの良い”描き方だと言えるだろう。外見の良さや地位などは,一目見れば理解できるからだ。

 一方で,男女が互いの内面的な魅力に魅かれて恋愛関係に至るというのは,“タイパが悪い”描きかただと言える。内面を描くには時間の掛かる描写が必要だし,内面に引かれる心情を描くのにもまた時間の掛かる描写が必要だからだ。

 そんな理由で,男女がお互いの内面や人格に魅力を感じて恋に落ちるといった展開は,あまり見られなくなってきてしまっている。

 しかし,金の国 水の国で描かれる男女にわかりやすい性的魅力は無い。王女サーラはぽっちゃりした体型だし,彼女と出合う建築士ナランバヤルも一重の三白眼で失職中だ。

 そんなわかりやすい性的魅力に乏しい両者だが,サーラはナランバヤルの理知的な面や来立ての良さに惹かれていき,ナランバヤルはサーラの優しさや気品に惹かれていく。二人は初めて会ったときから男女として意識しあっていたわけではないが,偽りの夫婦として関わり合っていく中で徐々に互いの人格的な魅力に気付いていく。

 こういった恋愛関係は,わかりやすく刺激的ではない。外見が良くてセクシーな男女が惚れ合って繰り広げる恋愛劇の方が,単純で見ていてドキドキ感があるというのも一般的な感覚だと思う。徐々にお互いの人格を認め合っていくようなスローテンポな恋愛は,タイパを重視する人たちにとっては価値の低いものなのかもしれない。

 しかし,わかりやすい性的魅力といのは裏を返して見れば誰もが気づくような魅力だ。外見の良さや地位や能力といった魅力は,別に恋人関係に至らずとも一目会った人ならば誰もが知るようなことであり,特別な関係に伴う深い理解による魅力ではない。

 一方で,内面的な魅力というのは恋愛関係に至る中で気付いた,相手を深く理解しなければ見えないような奥深い魅力だと言える。他人の知らない相手の魅力に基づいた恋愛関係は,即物的な魅力による恋愛関係よりもより深いものになると思う。

 ファストな恋愛ばかりが描かれる中で,スローな恋愛をしっかりと描いてくれた金の国 水の国はそこだけでも評価に値するだろう。

 わかりやすくない偉大さ

 先ほどまで,タイパという“わかりやすさ”を重視する現代とそれによって失われるものについて書いたが,今作で描かれる金の国・アルハミトの国王,ラスタバン三世はまさに“わかりやすさ”を求めたがゆえに過ちを犯しそうになる登場人物だ。

 ラスタバン三世は国王として偉大でありたいと思っているが,彼につけられた「ラスタバン」という名は先代において水の国・バイカリに対して融和的な外交を行っていたがゆえに「腰抜け」などと揶揄されていた王の名前であった。

 ラスタバン三世は自身が腰抜けではない,偉大な王であることを示そうとしてバイカリに戦争を仕掛けようとする。しかし両国の歴史を知るナランバヤルは先代のラスタバンが話の分かる王だとして尊敬されていたことをラスタバン三世に告げ,先代の意思を継いでバイカリとの国交を成立させることが彼の使命だと説得する。

 たしかに,戦争をして勝利を収めるというのは偉大さとしてわかりやすいものだ。それに対して,国交を通じて自国と他国を豊かにするというのは,地味でわかりにくく,弱腰であるかのようにすら見られる。しかし,戦争という“わかりやすい”力の誇示をして自国民も他国民も死なせるよりも,平和的に外交で豊かさを求める方が偉大な王であるはずだ。

 より良い世界を,平和で豊かな世界を作るためには安直なわかりやすさに飛びつくのではなく,深い思慮によって正しい選択をしなければならないのだと思わされる。

タイパも良いけど…

 現代では今までになく“わかりやすさ”が重視されるようになっているが,恋愛においても政治においてもわかりやすさだけで物事を判断すればよい結果は得られない。時間をかけても深く知り,深く考えることが良い結果につながるというのが,金の国 水の国を観て思ったことだ。多分制作側はそんなメッセージを持たせているわけではないと思うけど,自分はそう思ったという感想。