こうかい行動

映画/小説/アニメ/スポーツ

オペレーション:レッド・シー / 目撃者 / サスペクト 薄氷の狂気 / タクシー2・3

 GYAOが3月でサービス終了してしまうので,観られるうちに気になる映画は観ておこうと思って一通りの映画を観た。GYAOはこれまで無料で結構豊富なランナップの映画を見せてくれるありがたいサイトだったので,無くなってしまうのはちょっと残念だし悲しい。サブスク系のサービスは一切契約していなかったので気軽にネットで映画を観られるGYAOはかなりありがたい存在だったんだけど,反面儲かっているのか少し心配していたのでやっぱり赤字サービスだったんだなと納得してしまった。

 基本的には映画ってお金を払って観るものだと思ってるけど,無料で気軽に映画を観られることも映画好きを増やすためには必要だと思っていたので無くなってしまうのは惜しい気がする。

 

 

オペレーション:レッド・シー

2015年に内戦の続くイエメンから多くの自国民や外国人を救出した作戦をもとに描いた、中国製ミリタリーアクション。製作にあたり中国の海軍が全面協力し、実際の救出作戦で活躍した艦艇などが撮影に使用されている。監督は、香港アクション界の巨匠ダンテ・ラム。中東の某国で内戦が勃発し、現地に在留する自国民を助け出すため中国海軍が救出作戦を展開。多くの中国人が現地を脱出する一方、一部の人々が大使館などに取り残されてしまう。取り残された人々を救出する任務を負った「蛟竜(こうりゅう)突撃隊」の精鋭たちは、激戦を潜り抜けながら自国民を救出していく。しかし、1人の女性がテロリストによって連れ去られてしまい、蛟竜突撃隊はテロリストの制圧下にある危険地帯に足を踏み入れていく。

2018年製作/143分/中国・モロッコ合作

原題:紅海行動 Operation Red Sea

配給:クロックワークス

 

 

 最近勢いが良い,中国の国威発揚系ミリタリーアクション。中東が舞台の戦争映画は湾岸戦争とかイラク戦争を題材にしたアメリカ映画しか見たことが無かったので,割と新鮮な気持ちで見ることができた。戦争映画なのでもちろんガンガン人が死ぬんだけど,救出される中国の民間人も容赦なく殺されるのがショッキングだった。

 中国海軍の全面協力を謳うだけあって,ほとんどの場面で偽物感を感じることは無かった。昔の中国のアクション映画はなんか安っぽい絵面が多かった印象だけど,この映画は全編で本物らしさが出ていて良かった。

 こういうプロパガンダ要素のある映画は自国軍をカッコよく映すばかりになりがちだが,撃たれた中国軍の兵士が苦しみながら死んだり,爆弾で腕がもげたり,大使館の民間人が迫撃砲で黒焦げにされるシーンがガッツリ映っているので,戦争映画として真剣に戦場の悲惨さや無慈悲さを描いていたのは印象的だった。

 とはいえ本命はエンタメアクションなので,シリアスな戦場を描きながらもかなり荒唐無稽な展開に突き進んでいくのは予想通りだったし期待通りだったので,派手なアクションシーンもしっかりと楽しめた。エンタメ寄り戦争映画としては良作。

 

 

目撃者

韓国で大ヒットを記録したサスペンススリラー。深夜に泥酔状態で帰宅した会社員サンフン。外からかすかな悲鳴が聞こえたためベランダに出てみると、女性が男性に殴り殺される場面を目撃してしまう。次の瞬間、殺人犯はサンフンの部屋の明かりに気づき、部屋の階数を確認する。翌朝、警察による目撃情報の聞き取りがはじまるが、何百室もあるマンションの真下で起きた事件にも関わらず、証人は1人も現れない。サンフンは身の危険を感じ知らない振りをするが、殺人犯だけは彼が目撃者であることを確信していた。

2018年製作/111分/G/韓国

原題:The Witness

配給:ギャガ

 

 韓国映画の定番みたいな殺人鬼系の映画。犯人役の男が普通の若いイケメンって感じでいまいち狂気とか殺意の無い顔だったので怖さが無かった。チェイサーみたいな「普通っぽいヤバいやつ」の役は難しいのは分かるけど,この映画の犯人役は普通過ぎた。

 殺人現場を見られた犯人が主人公の部屋の階数を指さして確認する場面は有名なサイコパステストそのまんまで安直すぎると思った。

 正直主人公が犯人の復讐が恐くて警察に証言しないというのが無理がある。どのみち犯行を見られた時点で犯人が殺しに来る可能性が十分にあるんだからさっさと証言して捕まえてもらった方が安全だと思ってしまった。

 被害者の悲鳴を聞いてもマンションの住人が誰も駆けつけないとか,警察や被害者の家族に非協力的だとか,現代人の冷たさを描くようなちょっと社会的な面もあるけどだからって評価に値するほどのものではなかった。どっちかと言えば外れ映画。

 

 

サスペクト 薄氷の狂気

マン・オブ・スティール」のヘンリー・カビル、「カリフォルニア・ダウン」のアレクサンドラ・ダダリオ、「ガンジー」のベン・キングズレー共演によるサイコサスペンス。若い女性の遺体が発見され、容疑者の男サイモンが警察に連行される。プロファイラーのレイチェルが尋問を開始するが、知的障害を持つと思われるサイモンは子どもっぽい振る舞いばかりを見せ、捜査は一向に進まない。そんな中、さらなる事件が起こる。

2018年製作/98分/G/カナダ

原題:Night Hunter

配給:カルチュア・パブリッシャーズ

 

 ほぼ黒確定の容疑者サイモンが勾留されているにも関わらず更なる事件が起きる。他に協力者がいるのではと思われているところに登場するのがサイモンと瓜二つの男,つまり双子トリックなんだけど別に双子じゃなくても成立する話なのでなんで双子にしたのかがよくわからない。ただでさえ双子トリックなんてどちらかと言えば邪道トリックなんだからその辺はしっかりして欲しい。

 容疑者のサイモンは不気味さがあってよかったんだけど,彼は知的障害がある。小児性犯罪の犯人として“不気味な知的障害”を置くというのははっきり言ってかなり偏見を助長する表現でもあるのでその辺はちょっとどうなんだと思ってしまった。最近はポリコレで有色人種とか女とかLGBTとかへの偏見を許さない雰囲気があるけどそれに対して知的障碍者への偏見は見過ごされていることが多いのでちょっとムカついてしまった。

 とは言えサスペンス映画として,衝撃的な展開や緊迫感のあるシーンが多いので退屈せずに見通すことができた。わりと良作。

 

 

TAXi 2・3

 

スピード狂のタクシー運転手ダニエルは、恋人リリーの父親ベルティーノ将軍に気に入られ、VIP警護用特殊カー“コブラ”で日本から視察に来た防衛庁長官をパリまで送り届けるように、と依頼される。マルセイユ警察は“コブラ”の性能を長官にアピールしようと偽の襲撃隊を用意し、エミリアン刑事とペトラ刑事にその指揮を任せていたが、突如現れた謎の日本人グループに長官とペトラが連れ去られてしまう。

2000年製作/88分/フランス

原題:Taxi 2

配給:日本ヘラルド映画

97年の第1作、00年の第2作に続く第3作。今回の敵は、8カ月もマルセイユ警察を悩まし続ける銀行強盗集団。巨大な車でパトカーを踏み潰し、インラインスケートで戦車部隊を出し抜く知能犯たちに、おなじみスピード狂のダニエルとエミリアンのコンビが立ち向かう。

2003年製作/87分/フランス

原題:TAXi3

配給:アスミック・エース

 

 TAXiは一作目だけ見てあんまり面白くなかったので続編は観てなかったけど,この機会に観た。全体的に緩い雰囲気で本当に一切シリアスな場面が無い。アクションシーンも面白くはあるけどこれと言って凄みを感じるような激しいアクションもなくカーチェイスが繰り広げられるだけ。

 どこが面白いかと聞かれるとすごく困るし,昨日見たのに内容を殆ど覚えてないぐらい中身がない映画なんだけど主人公コンビの小気味の良い掛け合いとか登場人物のキャラ立ちで割と楽しんで見れる。軽い映画が見たいときの映画。

金の国 水の国 ファスト恋愛へのアンチテーゼ

あんまり期待せずに劇場まで観に行ったけど,予想外にいい映画だった。派手な映像や意外性のあるストーリーは無かったが,丁寧なキャラクター造形や筋の通った展開で気持ちよく物語の世界に浸らせてくれるような良作だ。

 ストーリーは映画公式サイトから引用するとこんな感じだ。

 

“商業国家で水以外は何でも手に入る金の国と、豊かな水と緑に恵まれているが貧しい水の国は、隣国同士だが長年にわたりいがみ合ってきた。金の国のおっとり王女サーラと、水の国で暮らすお調子者の建築士ナランバヤルは、両国の思惑に巻き込まれて結婚し、偽りの夫婦を演じることに。自分でも気づかぬうちに恋に落ちた2人は、互いへの思いを胸に秘めながらも真実を言い出せない。そんな彼らの優しい嘘は、やがて両国の未来を変えていく。”

 タイパの悪い恋愛

 ここで出会い,恋に落ちるサーラとナランバヤルは両者とも分かりやすいような性的な魅力はない…はっきりと書いてしまえばあんまりセクシーではない。

 現代において,男女の恋愛を描くためにはなにかしらの分かりやすい性的魅力がなければ,恋愛関係に説得力を持たせることが難しくなっている。ここでいう性的魅力とは,男女に共通するのが整った顔立ち,若々しさ,引き締まった身体つきなどだ。それに加えて,男性には何かしらの地位や能力なども性的魅力の条件に加わる。

 わかりやすい例を挙げると,最近公開されている「すずめの戸締り」はまさにそうだ。主人公の少女鈴芽は一目見てわかる美少女の女子高生で,彼女が出会う草太もまた一目見てわかる美青年だ。そして草太には,閉じ師という特別な能力と役割がある。こういった,わかりやすい性的魅力,セクシーさをなしに恋愛感情を持たせるということが最近の作品では少なくなっている。

 20世紀には大量消費社会が成立したが,それは食品や工業製品といった“物質”の大量消費社会だった。そして,21世紀に入り情報通信網が整備され誰もが高性能な情報処理端末を持つようになった現在では“情報”大量消費社会が成立した。情報,つまりコンテンツは安価に大量に生産され消費されるようになった。その結果「タイパ(タイムパフォーマンス)」と呼ばれるような,短時間で消費できることを至上とする価値観が形成された。

 映画やドラマといったコンテンツで恋愛を描くにあたって,上に上げたような分かりやすい性的魅力を理由に恋愛関係を成立させることが最も“タイパの良い”描き方だと言えるだろう。外見の良さや地位などは,一目見れば理解できるからだ。

 一方で,男女が互いの内面的な魅力に魅かれて恋愛関係に至るというのは,“タイパが悪い”描きかただと言える。内面を描くには時間の掛かる描写が必要だし,内面に引かれる心情を描くのにもまた時間の掛かる描写が必要だからだ。

 そんな理由で,男女がお互いの内面や人格に魅力を感じて恋に落ちるといった展開は,あまり見られなくなってきてしまっている。

 しかし,金の国 水の国で描かれる男女にわかりやすい性的魅力は無い。王女サーラはぽっちゃりした体型だし,彼女と出合う建築士ナランバヤルも一重の三白眼で失職中だ。

 そんなわかりやすい性的魅力に乏しい両者だが,サーラはナランバヤルの理知的な面や来立ての良さに惹かれていき,ナランバヤルはサーラの優しさや気品に惹かれていく。二人は初めて会ったときから男女として意識しあっていたわけではないが,偽りの夫婦として関わり合っていく中で徐々に互いの人格的な魅力に気付いていく。

 こういった恋愛関係は,わかりやすく刺激的ではない。外見が良くてセクシーな男女が惚れ合って繰り広げる恋愛劇の方が,単純で見ていてドキドキ感があるというのも一般的な感覚だと思う。徐々にお互いの人格を認め合っていくようなスローテンポな恋愛は,タイパを重視する人たちにとっては価値の低いものなのかもしれない。

 しかし,わかりやすい性的魅力といのは裏を返して見れば誰もが気づくような魅力だ。外見の良さや地位や能力といった魅力は,別に恋人関係に至らずとも一目会った人ならば誰もが知るようなことであり,特別な関係に伴う深い理解による魅力ではない。

 一方で,内面的な魅力というのは恋愛関係に至る中で気付いた,相手を深く理解しなければ見えないような奥深い魅力だと言える。他人の知らない相手の魅力に基づいた恋愛関係は,即物的な魅力による恋愛関係よりもより深いものになると思う。

 ファストな恋愛ばかりが描かれる中で,スローな恋愛をしっかりと描いてくれた金の国 水の国はそこだけでも評価に値するだろう。

 わかりやすくない偉大さ

 先ほどまで,タイパという“わかりやすさ”を重視する現代とそれによって失われるものについて書いたが,今作で描かれる金の国・アルハミトの国王,ラスタバン三世はまさに“わかりやすさ”を求めたがゆえに過ちを犯しそうになる登場人物だ。

 ラスタバン三世は国王として偉大でありたいと思っているが,彼につけられた「ラスタバン」という名は先代において水の国・バイカリに対して融和的な外交を行っていたがゆえに「腰抜け」などと揶揄されていた王の名前であった。

 ラスタバン三世は自身が腰抜けではない,偉大な王であることを示そうとしてバイカリに戦争を仕掛けようとする。しかし両国の歴史を知るナランバヤルは先代のラスタバンが話の分かる王だとして尊敬されていたことをラスタバン三世に告げ,先代の意思を継いでバイカリとの国交を成立させることが彼の使命だと説得する。

 たしかに,戦争をして勝利を収めるというのは偉大さとしてわかりやすいものだ。それに対して,国交を通じて自国と他国を豊かにするというのは,地味でわかりにくく,弱腰であるかのようにすら見られる。しかし,戦争という“わかりやすい”力の誇示をして自国民も他国民も死なせるよりも,平和的に外交で豊かさを求める方が偉大な王であるはずだ。

 より良い世界を,平和で豊かな世界を作るためには安直なわかりやすさに飛びつくのではなく,深い思慮によって正しい選択をしなければならないのだと思わされる。

タイパも良いけど…

 現代では今までになく“わかりやすさ”が重視されるようになっているが,恋愛においても政治においてもわかりやすさだけで物事を判断すればよい結果は得られない。時間をかけても深く知り,深く考えることが良い結果につながるというのが,金の国 水の国を観て思ったことだ。多分制作側はそんなメッセージを持たせているわけではないと思うけど,自分はそう思ったという感想。

アバター:ウェイ・オブ・ウォーターの酷いストーリーとキャメロンの信条

アバター:ウェイ・オブ・ウォータ―(以下WoW)を観てびっくりした。この2022年にあそこまで原始的なテーマの映画が,A級の大作映画として公開されることがあっていいんだろうかと映画を観た後で考えていた。

・陳腐すぎるテーマ

 WoWのわかりやすい二つのテーマ「自然との調和」と「家族愛」は今ではあまりに陳腐すぎて誰も真っ向から描こうとはしていない。もちろんこれらのテーマを扱った映画は今でも作られているが,ある程度それらの古いテーマを相対化したうえで現代的なテーマとのバランスを取った作りになっていることが殆どだ。

・自然は素晴らしい,住みたくはないけど

 確かに,自然との調和はアバターを描く上では絶対に外せないテーマであることは確かだけど,さすがに2022年に昔のディズニーレベルの自然賛美をやられるといくらWoWの美しい映像でも厳しいものを感じてしまう。ディズニーですらあんな安直な自然賛美は今どきほとんどやらない。

 自然素晴らしい的な価値観は,ここ最近でかなり相対化が進んでいて無批判に受け入れられることが難しくなっている。自然素晴らしい系の映画を作っている人のほとんどは都市に住んでおり,時々自然の中に出向いて自然での生活を“つまみ食い”してはそそくさと都市に帰って映像を編集する。2分ごとに来るサブウェイに乗って通勤し,クーラーの効いたスタジオで,ウバーイーツを頼みながら自然の映像に良い感じのBGMやエフェクトを付けて「俺の考えた美しい自然」を作り上げる。

 そうして出来上がった作品を消費するのもまた,都市に住む人々だ。ハイブリット・カーに乗って映画館まで来て,よく冷えたコカ・コーラを啜りながら,最新のドルビービジョンで映画を鑑賞する。

 この構図に,少なくない人々が違和感を持つようになってきた。都会の人間が作って都会の人間が消費するような自然の映像を見て自然に思いを馳せて理解を深めた気になるというのは,あまり正しくない消費の仕方では無いだろうかと思う人が出始めた。自然の中で暮らせば,直面するのは自然の美しさよりも厳しさだ。鹿に作物を荒らされたり,熊に襲われたり,雪の下敷になったりと実際に自然の中に暮らす人々は多くの苦難に耐えながら生活を送っている。そういった,自然の中で生きる苦しみを透明化した作品を見て自然の理解者を気取ることは若干搾取的ですらあると感じられる。そんなに自然が素晴らしいなら,なぜ誰もが都市に住みたがるんですか?

 そんな理由で,自然の中で生きることに美しい幻想を抱くことは現在では難しくなっている。アバターを見た観客の中で少なくない人たちが「パンドラの動物に喰われて死んだナヴィはたくさんいるだろうな」とか「イクランから落ちて死んだナヴィもいるだろうな」とか「ナヴィは大怪我や病気になったら死ぬしかないんだろうな」とか考えたはずだ。アバターを見て,ナヴィ族のように生きたいと思うのは12歳以下の子供くらいだろう。

 「自然と調和して生きる善のナヴィ族」と「自然を破壊する悪の人類」という対立構図は一作目から継承されているが,一作目が公開された11年前ですら若干時代遅れのストーリーだったのにそれをそのまま引き継いで全く同じ構図で描いているのは進歩も工夫も無さすぎる。

 一作目ではまだジェイクがナヴィ族と人類との間でどちらに味方すべきかといった葛藤や,圧倒的な戦力差のあるナヴィ族が人類にどう立ち向かうのかといった面白さがあった。しかしWoWではジェイクは完全にナヴィ族の一員であり,人間を敵に回すことにもはや何の葛藤もない。一作目のクライマックスで,パンドラの生き物が本気を出せば人類にも勝てるといったことがわかってしまっているので,戦いの絶望感も殆ど無い。

・成長しない主人公

 今作WoWで,主人公であるジェイクの行動原理は一貫している。「家族を守りたい」だ。冒頭でジェイクは家族を守るために一族の長の座を返上し,海の部族へと逃げ込む。そして終盤では家族を守るために再び戦うことを決意して終わる。初めと終わりで,ジェイクの思想信条には何の変化もない。

 一作目では違った。ジェイクは初め自分の脚を直す費用を稼ぐためにアバターとしてナヴィ族と接触する。そして徐々に,ナヴィ族として生きることに自分の生きる理由を見出すようになっていく。人間がナヴィ族を攻撃すると,彼はナヴィ族としてナヴィ族のために戦うことを決意する。ジェイクの目的は人間の健常者として生きることからナヴィ族を守ることに変化している。そこには自省と成長があった。

 一方で,WoWのジェイクは家族を守るとか言いながら始終自分本位だ。勝手に森を出ることを決めるし,息子に対しては高圧的に命令するばかりだし,ネイティリの心配や不安にも寄り添わない。そのことが最終的に反省されてジェイクの成長につながるのかと思っていたが,ジェイクの行動は最後までなんの批判も受けず自省もしない。息子を死なせた直後になぜ自信満々に家族を守るなんて言えるのかはっきり言って理解に苦しむ。

 一作目で描かれたネイティリは最高にセクシーだった。溌剌として自身たっぷりで,未熟なジェイクを導く姿は多くの男性に憧れを抱かせたはずだ。でもWoWの彼女は夫と子供たちに振り回されるだけのくたびれたお母さんだった。

 ジェイクの息子たちも,言うことを聞かない場面が多々あるものの基本的にジェイクに対して従順だ。ジェイクを否定したり,責めたりはしない。兄弟が死んでも,名前を間違えられてもだ。

 みんなジェイクの言いなりで,彼は時代遅れの強権的な父親だ。それが何の批判も葛藤もなく,あるべき家族の姿として美化されている光景が3時間も見せつけられるのにはすこし呆れた。

・キャメロンの信条

 ではなぜ,WoWでは徹底的に時代遅れなテーマの物語が描かれたのだろうか。キャメロンはこの脚本の欠点に気付かず,誰にも指摘されなかったのだろうか。ここからは完全に憶測だが,キャメロンは脚本が陳腐で時代遅れなことを自覚していたし,散々指摘もされていたはずだ。それでもなお,彼は脚本を変更しなかった。それはキャメロンの信条に由来する。

 そもそもキャメロンは,自身の映画で先進的なテーマや深く考えさせるような物語を取ることに殆ど感心がない。彼が追求するのはエピックで,エポックメーキングであることだけだ。

 彼の監督した映画をみれば,それは明らかだ。エイリアン2ターミネーター(2),タイタニック,どれも先進的なテーマなど一切扱っていない。そこにあるのは完ぺきな絵作りと,革新的な映像だけだ。彼は最高の映画監督としての強烈なプライドがあり,それ故に映画で映画的でない要素が評価されることを避けている。彼にとって,先進的なテーマや奥深い物語などは“映画的でない”要素であり,自身のエピックな映画には不要なものだと考えている。先進的なテーマや奥深い物語などは小説でもゲームでも描ける要素であり,金も才能もない奴らが評価されるための手段である位のことは思っていても不思議ではない。

 本当の映画の才能とは,薄っぺらい陳腐なストーリーで観客を感動させることだ。薄っぺらい陳腐なストーリーを壮大な物語にすることができるのが,映画の真の力だと,キャメロンは考えているのだろう。

 キャメロンは社会的なテーマに対する興味自体殆ど無くて,映画以外にはクジラを愛でることにしか興味が無いんだなという感想をWoWを見て思った。本当は海とクジラにしか興味が無いけど,自分が評価されるのは大作映画しなかいと思っているから無理やりなストーリーで舞台を海に移して陳腐なストーリーを金と時間を費やして作ったのだろう。雑すぎる捕鯨批判も社会への興味の無さから来ているんだと思う。

 WoWでもうキャメロンが完全に開き直っているとわかったので,開き直った彼の才能が傑作を作れるのか,あるいは爆死するのかが今後のアバターシリーズの見どころだ。