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アバター:ウェイ・オブ・ウォーターの酷いストーリーとキャメロンの信条

アバター:ウェイ・オブ・ウォータ―(以下WoW)を観てびっくりした。この2022年にあそこまで原始的なテーマの映画が,A級の大作映画として公開されることがあっていいんだろうかと映画を観た後で考えていた。

・陳腐すぎるテーマ

 WoWのわかりやすい二つのテーマ「自然との調和」と「家族愛」は今ではあまりに陳腐すぎて誰も真っ向から描こうとはしていない。もちろんこれらのテーマを扱った映画は今でも作られているが,ある程度それらの古いテーマを相対化したうえで現代的なテーマとのバランスを取った作りになっていることが殆どだ。

・自然は素晴らしい,住みたくはないけど

 確かに,自然との調和はアバターを描く上では絶対に外せないテーマであることは確かだけど,さすがに2022年に昔のディズニーレベルの自然賛美をやられるといくらWoWの美しい映像でも厳しいものを感じてしまう。ディズニーですらあんな安直な自然賛美は今どきほとんどやらない。

 自然素晴らしい的な価値観は,ここ最近でかなり相対化が進んでいて無批判に受け入れられることが難しくなっている。自然素晴らしい系の映画を作っている人のほとんどは都市に住んでおり,時々自然の中に出向いて自然での生活を“つまみ食い”してはそそくさと都市に帰って映像を編集する。2分ごとに来るサブウェイに乗って通勤し,クーラーの効いたスタジオで,ウバーイーツを頼みながら自然の映像に良い感じのBGMやエフェクトを付けて「俺の考えた美しい自然」を作り上げる。

 そうして出来上がった作品を消費するのもまた,都市に住む人々だ。ハイブリット・カーに乗って映画館まで来て,よく冷えたコカ・コーラを啜りながら,最新のドルビービジョンで映画を鑑賞する。

 この構図に,少なくない人々が違和感を持つようになってきた。都会の人間が作って都会の人間が消費するような自然の映像を見て自然に思いを馳せて理解を深めた気になるというのは,あまり正しくない消費の仕方では無いだろうかと思う人が出始めた。自然の中で暮らせば,直面するのは自然の美しさよりも厳しさだ。鹿に作物を荒らされたり,熊に襲われたり,雪の下敷になったりと実際に自然の中に暮らす人々は多くの苦難に耐えながら生活を送っている。そういった,自然の中で生きる苦しみを透明化した作品を見て自然の理解者を気取ることは若干搾取的ですらあると感じられる。そんなに自然が素晴らしいなら,なぜ誰もが都市に住みたがるんですか?

 そんな理由で,自然の中で生きることに美しい幻想を抱くことは現在では難しくなっている。アバターを見た観客の中で少なくない人たちが「パンドラの動物に喰われて死んだナヴィはたくさんいるだろうな」とか「イクランから落ちて死んだナヴィもいるだろうな」とか「ナヴィは大怪我や病気になったら死ぬしかないんだろうな」とか考えたはずだ。アバターを見て,ナヴィ族のように生きたいと思うのは12歳以下の子供くらいだろう。

 「自然と調和して生きる善のナヴィ族」と「自然を破壊する悪の人類」という対立構図は一作目から継承されているが,一作目が公開された11年前ですら若干時代遅れのストーリーだったのにそれをそのまま引き継いで全く同じ構図で描いているのは進歩も工夫も無さすぎる。

 一作目ではまだジェイクがナヴィ族と人類との間でどちらに味方すべきかといった葛藤や,圧倒的な戦力差のあるナヴィ族が人類にどう立ち向かうのかといった面白さがあった。しかしWoWではジェイクは完全にナヴィ族の一員であり,人間を敵に回すことにもはや何の葛藤もない。一作目のクライマックスで,パンドラの生き物が本気を出せば人類にも勝てるといったことがわかってしまっているので,戦いの絶望感も殆ど無い。

・成長しない主人公

 今作WoWで,主人公であるジェイクの行動原理は一貫している。「家族を守りたい」だ。冒頭でジェイクは家族を守るために一族の長の座を返上し,海の部族へと逃げ込む。そして終盤では家族を守るために再び戦うことを決意して終わる。初めと終わりで,ジェイクの思想信条には何の変化もない。

 一作目では違った。ジェイクは初め自分の脚を直す費用を稼ぐためにアバターとしてナヴィ族と接触する。そして徐々に,ナヴィ族として生きることに自分の生きる理由を見出すようになっていく。人間がナヴィ族を攻撃すると,彼はナヴィ族としてナヴィ族のために戦うことを決意する。ジェイクの目的は人間の健常者として生きることからナヴィ族を守ることに変化している。そこには自省と成長があった。

 一方で,WoWのジェイクは家族を守るとか言いながら始終自分本位だ。勝手に森を出ることを決めるし,息子に対しては高圧的に命令するばかりだし,ネイティリの心配や不安にも寄り添わない。そのことが最終的に反省されてジェイクの成長につながるのかと思っていたが,ジェイクの行動は最後までなんの批判も受けず自省もしない。息子を死なせた直後になぜ自信満々に家族を守るなんて言えるのかはっきり言って理解に苦しむ。

 一作目で描かれたネイティリは最高にセクシーだった。溌剌として自身たっぷりで,未熟なジェイクを導く姿は多くの男性に憧れを抱かせたはずだ。でもWoWの彼女は夫と子供たちに振り回されるだけのくたびれたお母さんだった。

 ジェイクの息子たちも,言うことを聞かない場面が多々あるものの基本的にジェイクに対して従順だ。ジェイクを否定したり,責めたりはしない。兄弟が死んでも,名前を間違えられてもだ。

 みんなジェイクの言いなりで,彼は時代遅れの強権的な父親だ。それが何の批判も葛藤もなく,あるべき家族の姿として美化されている光景が3時間も見せつけられるのにはすこし呆れた。

・キャメロンの信条

 ではなぜ,WoWでは徹底的に時代遅れなテーマの物語が描かれたのだろうか。キャメロンはこの脚本の欠点に気付かず,誰にも指摘されなかったのだろうか。ここからは完全に憶測だが,キャメロンは脚本が陳腐で時代遅れなことを自覚していたし,散々指摘もされていたはずだ。それでもなお,彼は脚本を変更しなかった。それはキャメロンの信条に由来する。

 そもそもキャメロンは,自身の映画で先進的なテーマや深く考えさせるような物語を取ることに殆ど感心がない。彼が追求するのはエピックで,エポックメーキングであることだけだ。

 彼の監督した映画をみれば,それは明らかだ。エイリアン2ターミネーター(2),タイタニック,どれも先進的なテーマなど一切扱っていない。そこにあるのは完ぺきな絵作りと,革新的な映像だけだ。彼は最高の映画監督としての強烈なプライドがあり,それ故に映画で映画的でない要素が評価されることを避けている。彼にとって,先進的なテーマや奥深い物語などは“映画的でない”要素であり,自身のエピックな映画には不要なものだと考えている。先進的なテーマや奥深い物語などは小説でもゲームでも描ける要素であり,金も才能もない奴らが評価されるための手段である位のことは思っていても不思議ではない。

 本当の映画の才能とは,薄っぺらい陳腐なストーリーで観客を感動させることだ。薄っぺらい陳腐なストーリーを壮大な物語にすることができるのが,映画の真の力だと,キャメロンは考えているのだろう。

 キャメロンは社会的なテーマに対する興味自体殆ど無くて,映画以外にはクジラを愛でることにしか興味が無いんだなという感想をWoWを見て思った。本当は海とクジラにしか興味が無いけど,自分が評価されるのは大作映画しなかいと思っているから無理やりなストーリーで舞台を海に移して陳腐なストーリーを金と時間を費やして作ったのだろう。雑すぎる捕鯨批判も社会への興味の無さから来ているんだと思う。

 WoWでもうキャメロンが完全に開き直っているとわかったので,開き直った彼の才能が傑作を作れるのか,あるいは爆死するのかが今後のアバターシリーズの見どころだ。